とある街のどこかの路地裏にひっそりと佇む一軒の店、夜魔猫亭。
いつ開くのか、何の店なのかも謎。
それでも気まぐれに明かりが灯る時、どこからともなくお客がやってくる。
ここは誰もが本当の自分の姿でいられる場所。

いらっしゃいませ。どうぞごゆるりと。
 

放送はYouTube LIVEにて

悪魔を消す方法があった?!

思うことあれこれ
昨日、外国からきた言葉を日本語に訳するための造語を調べていると
思っていたより沢山出てきて驚きました。
恋愛も、社会も、個人も、存在も、自然も、権利も、彼も彼女も、
芸術も、品性も、人格も、情報も、目的も、時間も、刺激も、実感も、
集団も、宗教も、常識も、性能も、積極も、絶対も、代表も、伝統も、
その他もろもろ、今は当たり前に使っていてなくては困る言葉の多くが、
明治以前には存在していなかったという事を知ってビックリ。
じゃあ、それ以前の人たちはどんな話をしていたのか。
ちょっと想像もつきません。
また、そうして探っていくうちに、更に興味深いことがわかりました。
西洋で言うところのサタンに該当する言葉は、日本にはなかったそうなのです。
なので苦し紛れに、悪いことをする空想上の存在として最初は「天狗」と訳されたとか。
え? じゃあ、「悪魔」は? と思いますよね。
「悪魔」という言葉自体は、新しく造られた語ではなく、それ以前からもあったものでした。
ただ、仏教語としてで、意味は今とは違っていました。
元々「悪魔」とは仏教用語で、仏道を邪魔する悪神のこと。
仏典に出てくるマーラの訳語で、「いのちを奪うもの」という意味になりますが、
ここで言う「いのち」とは「生命」ではありません。
仏道を志して真実に目覚めることを「我がいのち」として選び取った者だけに、
悪魔はその「いのち」を奪おうとして
「そんな辛いことやめて楽な方に行こうよ。楽しく遊ぼうよ」と働きかけてくるのだそうです。
この悪魔を消すのは簡単。
「そうだね♪」と誘惑に乗っかって、道を捨てればいいだけ。
真実を求めるのをやめてしまえば、悪魔はそれ以上何もして来ない。めでたしめでたし。
けれども、悪魔の甘い囁きを撥ね退け、尚も道を求め続けるなら、
まだまだ戦いは続きます。
決して「参った、降参」とはなってくれない。
「我がいのち」を生き続けている限り、その「いのち」を奪おうとしてくるので。
西洋的な、山羊の頭をして魔女とか使い、生贄を求めたり疫病を流行らせたりする悪魔とは
随分違っていますね。
取り憑かれたら怖い顔して悪い言葉喋って緑のドロドロ吐いて首が180°回転して
ベッドが浮かび上がって十字架とか聖水とか当たるとジューッと火傷するような
そんな悪魔は、日本では神仏と敵対する者としては存在していません。
強いて同じようなことをするモノを上げるとするならば、「狐憑き」でしょうか。
神父の役目をするのは、日本全国どの地域にも職業としていた「お祓い師」「拝み屋」さん。
医者(技術)でも、お坊さん・神主さん(権威)でもないという所が、
宗教とは別の自然現象的な作用への対処という感じがします。
「山や海や川や野っ原にゃあ、エエモンもおりゃあ、ワルイモンもおるわいな。
 村にも来よる。家にも来よる。
 やけえ、触ろう思わぁでも触る事もある。なーもせぇでも目つけられもする。
 そらしょうがない。ワシらも生きとる。アレらも生きとるが。
 ついてきたら祓ぅて帰ってもろうたらええ。後は心がけやな」
神とは、仏とは、鬼とは、悪魔とは・・・・?
一般に常識として信じられていることや既存の概念を疑いだすと、
色んな事に気づくと共に、色んなことがわからなくなって行きます。だけどこれが面白い。
外国からの言葉、概念、思想、信仰に照らし合わせ、
類似を見つけては同じものと設定したり、新しい意味付けをしたりすることで、
得たものは多いですが、失ったものも今の私たちが思っている以上に多そうです。
失ったのは、もう一度見つけなおすためだと信じたい。
「そんな事を考えて何の役に立つ?疑いなんて持たずに楽~に流されよう?」
悪魔はここにいる。(笑)

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